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種子島からもどって半月ほどたったある朝のことだ。 そういえばF君からも似たような話を聞いた。彼が子どものころ、近くの浜にたくさんのイルカが打ち上げられたというのだ。激しい潮流にあらがうことができずに、力つき打ち上げられたらしい。 種子島はまるで激流に突きだした岩だ。激流とはもちろん黒潮だ。 時にはこの国の在り方を、大きく変えてしまうようなものをも運んできた。鉄砲だ。それ以前にも明、中国から伝えられ国産化されていた銅製の小銃(鉄砲とは呼ばなかったらしいが)はあったらしいが、命中率も高く、殺傷能力も高い本格的な鉄砲がはじめて伝えられたのは、種子島だということだ。 一五四三年(天文十二年)のことだ。島の南端門倉岬に明国船が漂着した。乗っていたポルトガル人が持っていたという。その威力を目の当たりにした当時の島主、種子島時 が、大金を積んでたった二丁手に入れたのがはじまりだ。 鉄砲のことについてぼくが感じたことは、別にちがう角度から詳しく書くことにする。が、武器というものは、どうやらひとの心を強くつかんで放さないらしい。多くの刀鍛冶が動員され、翌年には鉄砲の国産化が実現された。そして瞬く間に、堺、根来などに伝えられ日本中にひろがっていく。鉄砲の出現で、それまでの白兵戦のなかで名乗りを上げ一対一で戦うスタイルは、大きく変わることになる。大量の鉄砲を手に入れ、鉄砲を背景にした高い交戦能力を戦略の中心に据え、新しい戦い方を編み出した者が、戦国の覇権を握っていったのだ。 種子島島主の城、赤尾木城の跡に、時 の像が建っている。西の海を眺め、左手には鉄砲を持ち、凛々しく立つ姿だ。それを見上げながら思った。どうして彼は、苦労して自分のものにした鉄砲製造の技術を、商人に託し国内にひろめたのだろう。新たな武器を手に、自ら覇権を争う闘いに出ていかなかったのだろう。 自分なりの答えを見つけるのに、たいして時間はかからなかった。 鉄砲の国産化実現の陰には、ひとつのドラマが語り継がれている。 これにはいくつかの説がある。ポルトガル人の方から嫁に差し出せば教えてやると迫ったとする説、娘が父親の苦労を見るに見かねて申し出たとする説、娘がポルトガル人と恋に落ちたという説などだ。 いずれにしても、金兵衛はこのことで内ネジの切り方を修得し、国産第一号の鉄砲を完成させることになる。ドラマとして語り継がれる背景には、そこまでしてという思いがある。しかし、職人というものは、ものづくりに賭ける者とは、そういうひとたちなのだ。 時 とその意を受けた職人たちは、自らの作り出した鉄砲を手に実際に戦場に赴くことはなかった。しかし、彼らの技術は戦いの様相を変え、覇権を握るのに欠かせない武器、力となった。鉄砲がながく「種子島」と呼ばれたことでもわかるように、種子島の人々は技術でこの国の覇権を握ったのだ。これこそ職人冥利につきるのではないだろうか。 この時、鉄砲と同時にまんなかに支点をもつ西洋式のハサミも伝えられた。これは今も「種子鋏」として根強い人気がある。そして刀剣や鉄砲の製造で培われてきた技術は、この「種子鋏」や「種子包丁」として伝えられている。 時代は四百年以上下る。一八九四年(明治二十七年)。 地元のひとたちはインギー鶏を食用として大切に育ててきたが、簡単に鳥肉が手に入るようになると飼う家も次第に少なくなったという。その後各種の調査で、インギー鶏は世界的にも珍しい品種であることがわかり、九二年には南種子町の文化財に指定され、国や県の補助も受けて鶏舎や食鶏加工場もつくられた。さらに、「インギー鶏振興会」も発足し町を挙げての特産品づくりが推し進められた。 しかし、飼育期間がほかの品種よりもながく、価格も高いなど、商品としてはいくつかの問題をかかえ、新たな販路の開発など試行錯誤が続いているのが現状だそうだ。 ぼくが自分の目で見たのは、漂着地から近い花峰小学校で飼われているインギー鶏だった。子どもたちが大切に育てているのだ。 味はというと、これは竹崎にあるリゾートホテルで体験できた。そのホテルでは赤ワイン煮や親子丼など、インギー鶏を使ったメニューを用意している。正直言って、人並み以下の舌の持ち主であるぼくには、ふつうの鳥肉と比べてどうなのかよくわからなかった。まあ、歴史を食べているんだと思うと、なんとも奥行きのある味がしたような、そんな気がした。 ドラメルタン号が漂着した前之浜には立派な記念碑が建てられ、一帯は海浜公園として整備されている。インギー鶏にしろ、漂着地にしろ、町を活性化させる材料として大きな期待を集めている。しかし、四百年前に鉄砲がこの島にもたらした繁栄には、遠くおよばないようだ。 「もっとおもしろいものが流れ着いてるんですよ」 「大きなゴミでも流れ着いたのかい?」 「ええ、まあ、ゴミと言えばゴミですけどね……」 F君に教えられて、夕暮れの犬城の海岸に下りた。 貨物船だ。船体は錆び、書かれているはずの国籍や船名は読めなくなっていた。何トンくらいの船なのかは見当もつかなかったが、種子島に渡ってくるフェリーよりもはるかに小さく、ひょっとするとジェットフォイルよりも小さいかもしれないと思った。しかし、ああ、船というのは陸に上がるとでっかいものなんだ、という印象だった。「PANAMA」、船尾に残ったペンキがかろうじてそう読めた。 何年か前の台風で打ち上げられたそうだ。当時は見物人も多く、新しい名所ができたみたいな感じだったらしい。だが、ドラメルタン号のように、乗組員と地元のひとたちのあいだに交流があったかどうかは知らない。 流木を集めて焚き火をした。その小さな炎のほかに船を照らすものはなかった。いや、船ではない。錆びた鉄の塊だ。この船も、こんな形で自分の命が終わるとは思ってもみなかっただろう。 打ち上げられて、伝えられて、そこで新しい命を得るものもあれば、静かに終わっていくものもある。命の糧を運んだかもしれない、あるいは夢を運んだかもしれないその貨物船は、ふたたび海にもどることもなく、今もあの海岸で朽ち続けているにちがいない。 「種子島へ 拒めない海」2000年6月刊 再海社 |
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